ベートーヴェンとピアノ
2002年10月号掲載

 ピアノの誕生は18世紀の初頭になります。一度弦を打ったハンマーが再び飛び跳ね、二度打ちしないようにするための機構、次の打弦に即座に備えるための工夫など、ピアノの発明には高度な技術が要求されました。そのピアノが一般に普及し始めるのは、18世紀の末になってからのことです。
 1770年に生を受けたベートーヴェン。彼はその生涯でどのような鍵盤楽器を弾いていたのでしょうか。
 18歳頃にヴァルトシュタイン伯からJ.A.シュタイン製のピアノを贈られるまで、ベートーヴェンの周りにある鍵盤楽器といえばクラヴィコードかチェンバロ、またはオルガンでした。その後1792年、ウィーンに移住した当初、彼が愛好した楽器はA.ヴァルター製の楽器です(写真)。チェンバロと同じような見かけのこの楽器は現在のピアノとは様相が大きく異なります。J.A.シュタインやA.ヴァルターのピアノは、跳ね上げ式(ウィーン式アクション)と呼ばれる、軽いハンマーを梃子の原理で跳ね上げ打弦するというシンプルな構造をもっています。タッチは浅く俊敏で、軽やかで華やかな音楽が奏でられます。音域は5オクターブしかありません。
 ベートーヴェンはこのタイプの楽器で弾かれることを想定しながら、「悲愴ソナタ 作品13」「月光ソナタ 作品27-2」そして「テンペスト 作品31-2」を含む作品31までの、実に彼の全創作の半分以上のピアノソナタを作曲しました。18世紀半ばに起こった産業革命の波は、この複雑な機構をもつピアノという楽器の改良に影響を与えます。ボディは、重くなるアクションや弦の張力に負けないように堅牢になってゆき、より大きなダイナミクスレンジを得るため各メーカーが競って工夫を施してゆきました。
 1803年にフランスのS.エラールからベートーヴェンの元へ一台の楽器が届きました。この楽器は突き上げ式(イギリス式アクション)という、ウィーンのメーカーとは基本となる打弦方法が異なる新しいタイプの楽器で、音域もそれまでのピアノから上方に5度拡大されたものでした。この楽器に触発されて「ヴァルトシュタイン・ソナタ 作品53」や「熱情ソナタ 作品57」がベートーヴェンの手によって生み出されました。これらの作品から、エラール製の楽器がいかに力強いサウンドを奏でたかを想像することができます。(ちなみに現代のピアノはこの突き上げ式アクションを採用しています。)

 当時の楽器はそれぞれがオリジナリティーに溢れるものでした。現在のピアノにはないユニークなペダルシステム。弦とハンマーの間に布が入り幻想的な表情をもつ「モデラート・ペダル」。低弦の上に鉄棒を触れさせてジンジンとした音を聴かせる「ファゴット・ペダル」。本来3本ある弦を自在に2本(ドゥエ・コルデ)または1本(ウナ・コルダ)に減じてゆくなど、様々な工夫が凝らされています。
 今日まで残らなかったこうした最新のシステムを、ベートーヴェンは自作品に積極的に採り入れてゆきます。音域が拡大されればすぐにその最高音から最低音までを駆使する作品を書く彼の態度は、新しもの好きで好奇心いっぱいの、常に前を向いているベートーヴェン像を示してくれます。

 作品と楽器との、ちょっとユニークな例がありますので紹介しましょう。
 ナネッテ・シュトライヒャー(ベートーヴェンの親しい友人)などのウィーンのメーカーは1810年以降F1〜f4の6オクターブのピアノの製作をしていましたが、1818年2月の初めにベートーヴェンの元に届いたイギリスのブロードウッド製の楽器は、シュトライヒャー製の楽器より音域が四度下方にずれたC1〜c4の6オクターブの楽器でした。ベートーヴェンは、時あたかもピアノソナタを作曲中。彼はこの新しい楽器に即座に魅了されたのでしょう。そのソナタの第3、4楽章はこの新しいピアノで弾かれることを想定して作曲を進めました。出来上がった作品は、今日「ハンマークラヴィーア・ソナタ」という愛称で呼ばれている作品106のソナタです。
 ところが、この作品の第1,2楽章はシュトライヒャーの音域で作曲されているため、ブロードウッド製の楽器では高音域が足りなくて演奏できません。後半楽章は逆にシュトライヒャーでは低音域が足りないので演奏できないのです。
 この頃になるとベートーヴェンは、鍵盤の音域は近い内に両方向に拡大されるであろうことを悟るようになり、こうした不都合にあまり頓着しなかったのでしょうか。ピアノをドイツ語で「ハンマークラヴィーア」と呼ぶベートーヴェン。年々かたちも響きも変化してゆくこの楽器をどのような思いで見ていたのでしょう。 

 32曲のピアノソナタをそれぞれの時代楽器で、そして今日のピアノでと弾き比べながらその作風の変化を追ってみると、初期、中期のソナタでは手元にある楽器の性能をフルに活躍させ、その楽器のもつ音色や個性から、自ずとインスピレーションを得つつ作曲していたように思われるのが、後期のソナタ群では、ベートーヴェンが宇宙や神から啓示を受けた音楽を実際に鳴り響いている音以上の何ものかを表現する完全な楽器として彼が考えていたように感じるます。
 そして、そこにはその音楽を共有できる高い理想をもった同志への信頼と共に。


A.Walter製のピアノ(1795年製)のレプリカ

「ピアニストが見たベートーヴェンの素顔」表紙