「月光ソナタ」をめぐって
2001年8月号掲載

 若い伯爵令嬢ジュリエッタ・グイッチャルディに献呈された「幻想曲風ソナタ」作品27-2。今回は、このベートーヴェンのクラヴィーア作品の中で、最も人気の高い作品、通称「月光ソナタ」にまつわるお話をしましょう。
 「月光」という呼び名はベートーヴェンが命名したものではありませんが、確かに月明かりの美しい夜、乙女を傍らにクラヴィーアへ向かうベートーヴェンの姿を彷彿とさせるような、ロマンティックで深淵な世界が描かれています。また、イタリアからやってきて一時ベートーヴェンと親密な間柄になった美女、ジュリエッタとの逸話がこのソナタにさらなる色合いを添えています。
 「幻想曲風ソナタ」のタイトルの方はベートーヴェンによるものです。このタイトルには、それまでの古典派の様式から決別するベートーヴェンの意志が込められています。幻想的な第1楽章。リズミカルながら穏やかな性格の第2楽章。そして厳格な性格と形式をもつフィナーレが、このソナタのクライマックスを形成します。3つの楽章が有機的に結びつきながら、最後に向けて緊張を高めてゆくベートーヴェンの試みが成功しています。
 初版譜の表紙にはタイトルが"SONATA quasi una FANTASIA"(幻想曲風ソナタ)とあり、その下に"per il Clavicembalo o Piano = Forte"(チェンバロかピアノフォルテのための)の記載が見られます。出版されたのは1802年。当時まだチェンバロとピアノフォルテが共存していたことが窺えます。人数的には相当いたのでしょう、チェンバロしか所有していない人にも楽譜を買ってもらいたい、という出版社の意向が反映されています。ベートーヴェンのどのソナタも、実際はチェンバロで弾かれて作品の持つ味わいが表現されるものではないのですが、新旧の目まぐるしい交替に折り合いをつけてゆく社会の状況が、表題から透けて見えてくるようで興味深く思います。
 「月光ソナタ」の第一楽章冒頭には、「曲中つねにピアニッシモで、ソルディーノなしで "Sempre pianissimo e Senza Sordino"」と書かれています。ソルディーノとは弱音器という意味ですが、当時のベートーヴェンはソルディーノをダンパー(弦の振動をとめる消音装置)の意味で使っていました。すなわち、「曲中ダンパーを使用せずに」ということになります。
 ベートーヴェンがこの頃愛用していた楽器は5オクターブのアントン・ヴァルター製(写真)、もしくは同型のウィーンアクションの楽器ですが、この楽器を用いて第1楽章中ダンパーを常に外し、「全曲を通してデリケートな響きで(楽譜上の指示)」演奏すると独特の得も言われぬ美しさが表現されます。石畳の街にカリヨンの鐘の音が響き、建物に反響しながら交じり合ってゆくヨーロッパの月夜の情景が浮かび上がってくるようです。現代のピアノでダンパーペダル(右ペダル)を踏みっぱなしにして演奏すると、美しさを通り越し不協和音に満ちてしまい、この雰囲気を味わえないのが残念です。
 加えて、ヴァルター製のピアノには、弦とハンマーの間に布を差し入れて音色を変化させるモデラートペダルなるものがあります。ベートーヴェンの弟子のC.チェルニーによると、ベートーヴェンはこの楽章を弾くときに弱音ペダルも使用して演奏していた、ということです。
 これらのペダルは、左右それぞれの膝で押し上げることにより操作されます。
 ベートーヴェンのピアノ作品は、日進月歩で改良されつつあった楽器と密接な関連があります。ピアノの改良に常に関心を持っていてメーカーにも要望を遠慮なくぶつけたといわれるベートーヴェンはまた、逆に年々変遷してゆくピアノからインスピレーションを得て、それが作風に影響を及ぼしている面があります。このコーナーでも折に触れてそれら種々の楽器と作品との関連についてお話しをしてゆきましょう。


クリス・マーネ製作(アントン・ヴァルター1795年のモデル)


左右の膝ペダル(左がモデラートペダル、右がダンパーペダル)

蛇足*2002年6月にリリースされた小倉貴久子のCD《「月光」幻想曲風ソナタ/クラヴィーアソナタ》で実際の音をお聴きいただくことができます。CDについての詳細はこちらへ。

「ピアニストが見たベートーヴェンの素顔」表紙