心躍らされる各種校訂版
2001年12月号掲載

 いつの時代の指揮者も、どこのピアニストでも、演奏家はベートーヴェンの素顔に迫るために苦心し、自身の演奏こそがベートーヴェンの真の姿を現すものと確信をもって演奏してきたはずです。ただそうは言っても21世紀の現代から過去を振り返ってみると、各時代の演奏様式には大きな違いがあり、その変化はベートーヴェンに対する価値観と共に大きくゆれています。

ロマン主義と新即物主義

 ベートーヴェンの生演奏を知る弟子達、C.チェルニーやモシェレスなど優秀なピアニストは、ベートーヴェンの意図を後生に伝えようと口伝で、また校訂版を出したり、演奏のヒントを記した著書を残しています。それがリストに伝わり、またその弟子であるハンス・フォン・ビュローなどに伝わってゆきます(リスト版やビュロー版がある)。
 各々の弟子達は校訂版をつくるにあたって、伝承を正確に伝えようと努力する反面、その長い年月の間に自身を取り巻く音楽の状況が変化してゆくので、それら状況が反映された、時代による違いが濃厚ににじみ出た譜が生まれることになります。現在では一般に、それら19世紀後半から20世紀にかけて出版された校訂版は、ロマン派のこてこての表情記号にまみれた19世紀的価値観を押しつけた、ベートーヴェンの意図からはかけ離れたものと、いささか軽視されている感があります。
 その後20世紀に入ると「新即物主義」という、楽譜に忠実に再現されたものが真実を語る、というような考え方が現れます。これはそれまでのこてこてのロマン主義の音楽からその垢を取り除き、作品本来の姿を取り戻そうという考えが根底にあり、しばしば反ロマン的と形容されます。新即物主義が登場する前までの演奏と比べると、楽譜の表記に全幅の信頼を寄せたその演奏は、硬直した感じのものになりました。戦後そのような方向が一層進み「楽譜至上主義」的、しかもベートーヴェンの関わった初版譜や自筆譜にこそ真実がある、という演奏が一般化してゆきます。
 しかもそれらの演奏には、パリコンセルヴァトワール仕込みの近代的読譜法を適用しての厳格さが備わっています(音楽の本格的な教育機関、パリコンセルヴァトワールがヨーロッパ中に認知され、その教育法が広まるのは19世紀半ば頃から)。
 確かにベートーヴェンから始まった近代的要素は多く、例えば、完成作品に恣意的な装飾を施すのをよしとしなかったそのスタイルは、モーツァルト時代までの、演奏家に委ねられていた自由な部分が多かったそのスタイルと比較すると近代的作曲家のはしりであることが窺えます。
 しかし、このベートーヴェンの近代性は決して「楽譜至上主義」と結びつくことではありません。

もっと素顔に迫るために

 ショパンの演奏は今日でも、楽譜への捕らわれ度合いが少なく、比較的自由になされています。ショパンにおいて「楽譜通り」ということがそれほど強調されないのは、ショパンが演奏する際に案外気ままに音を変えて演奏していたという伝承や、弟子のミクリの言葉や校訂譜がよく知られていて、ショパンの最終稿の絶対性が薄められていることに原因があるように思います。
 またショパンの場合、その演奏の伝統は少なくともコルトーあたりまで継承されているように思います。コルトー版の注釈から窺える伝統の最大公約数を採用しようという態度。そしてコルトー自身によって残された演奏を照らし合わせてみると、ショパンからの演奏習慣の脈が途切れていないことを思い知らされます。
 ところがベートーヴェンの場合、先に述べたように脈は存在するのですが、真正のベートーヴェン像からはかけ離れたものと軽んじられています。確かに19世紀の校訂版には、楽器の違いによる誤解、恣意的な側面が散見されます。しかし大局に立ってこれら19世紀に出版された校訂版を見ていると、ベートーヴェン作品に対する多様な演奏可能性が示されていて、もっとファンタジックで色彩的な演奏ができるのではと浮き浮きする気持ちにさせてくれるのです。
 古典派の作品は厳格でストイックに演奏するもの、という呪縛に捕らわれすぎているのではないでしょうか。ショパンのように、あるいはジャズのような即興性をもって演奏される、もっと自由なベートーヴェン像を描くことができるのでは、と考えています。
 原典版の重要さは語るまでもないでしょう。最も重要な資料であり、もちろん私も演奏する際には必ず原典版を使用しています。
 その上で更に19世紀から20世紀初頭に出版された校訂版にも以上のような観点でスポットをあててみると、さらにベートーヴェンの声が身近に感じられ、より素顔に迫れるのでは、と考えています。

「ピアニストが見たベートーヴェンの素顔」表紙