コジェルフ Who's Who

CD コジェルフ クラヴィーア作品集 小倉貴久子(フォルテピアノ)
ブックレット解説書から転載

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コジェルフについて 安田 和信

 「私自身が耳にしたところでは、どちらかといえば熱心で熟練したウィーンの音楽愛好家たちの多くは、[カール・フィリップ・エマヌエル]バッハについて語ることに無関心であるだけでなく、内に敵愾心を持っている。クラヴィーアに関するかぎり、彼にとってはシュテファンとコジェルフがすべてであった。」
 これは、作家フリードリヒ・ニコライ(1733〜1811)の著作『ウィーンの音楽について』(1784年)からの引用である。ニコライはベルリン出身ゆえに、北ドイツ語圏の代表的なクラヴィーア音楽の作曲家であるバッハを引き合いに出しながら、ウィーンでは、ボヘミア出身の2人が高い人気を誇っているとしている。その2人の作曲家とは、ヨーゼフ・アントン・シュテファン[シュチェパーン](1726〜97)、そして本盤の主役、レオポルト・アントン・コジェルフである。
 コジェルフは1747年6月26日、プラハの近郊の街ヴェルヴァリで靴職人の父のもとで生まれた(姓の“Kozeluh”はチェコ語で「なめし皮職人」の意)。同じく著名な音楽家となった従兄弟のヨハン・アントン(1738〜1814)と区別するため、1770年代からレオポルトの名を使用している。生地で基本的な教育を受けた後、プラハで活動していた従兄弟や、モーツァルトと親交をもつこととなるフランツ・クサヴァー・ドゥーシェクのもとで研鑽を積んだ。エルンスト・ルートヴィヒ・ゲルバーの『歴史的・自伝的音楽家辞典』(1790〜92年刊)によれば、修業時代のコジェルフは、ヨーゼフ・ハイドンの音楽を研究していたという。70年代よりプラハでバレエなど劇場音楽の分野で成功を収めている。最初のピアノ・ソナタ集が73年にブライトコップより出版されている。
 1778年にウィーンへ移住したコジェルフは、クラヴィーア奏者、作曲家、教師として活動することとなった。3年後に同地へ移住して来るモーツァルトと同じように、彼はフリーランスの音楽家だったのである。1780年に崩御したマリア・テレージアを悼む葬送カンタータを作曲しているところからも、ウィーンでの彼の名声はモーツァルト登場以前に確立していたことが窺えるだろう。ピアノ教師としても多くの弟子をもち、モーツァルトとも関係のあるマリア・テレージア・パラディースなどもコジェルフに師事していた。先述のニコライの言葉にもあるように、1780年代におけるコジェルフの人気は非常に高かったのである。ちなみに、モーツァルトとコジェルフは交友関係があったのは間違いなく、少なくとも前者が後者を同業者として強く意識していたのは間違いない。
 85年には弟のアントニーン・トマーシュ(1752〜1805)とともに「ムジカリシェス・マガザンMusikalisches Magazin」なる名の出版社を興している。この出版社は1802年頃まで活動し、その主目的は自作出版であったが、クレメンティ、プレイエルなどの人気作曲家の作品も出版されている。モーツァルト作品も特に彼の死後から出版されている(ただし、《魔笛》K620が初演された直後の1791年12月には、このオペラの13のナンバーを歌とクラヴィーアのために編曲した版を販売している)。1792年に新皇帝のレーオポルト2世より宮廷作曲家に任命され、名実ともにウィーンを代表する音楽家の一人となった。
 晩年のコジェルフは宮廷作曲家としての仕事や教育活動に専念し、作曲活動はイギリス各地の民謡編曲などに限られていた。ベートーヴェンやシューベルトが既に充実した活動をしていた1818年の5月7日、彼はウィーンで没している。

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