『モーツァルトの生きた時代』第2回 楽曲解説

はじめに

 第2回の当夜は‘ザルツブルクのモーツァルト’と題されているが、これには若干の補足が必要であろう。第1回はいわゆる「西方への大旅行」に焦点をあてたが、今回はその大旅行の時期を除き、幼少期から20歳くらいまで、つまり1770年代中頃までの時代をカヴァーしている。大旅行を挟む時期には、故郷ザルツブルクに留まっていたこともあったが、ウィーンへ2回、イタリアへ3回赴くなど、‘神童’として各地を旅行して回っていた。従って、‘ザルツブルクのモーツァルト’というタイトルはやや実体とはズレがあるかも知れないが、ご了承願いたい。

演奏曲目について

●L.モーツァルト:《ナンネルの楽譜帳》より 行進曲ヘ長調、メヌエットヘ長調、小品ヘ長調

 《ナンネルの楽譜帳》は、ヴォルフガングの姉マリア・アンナ(愛称‘ナンネル’)のためのクラヴィーア演奏の練習曲集として、父レーオポルトが1759年に編んだもの。この楽譜帳は概ね難易度の低い順に小品が並べられた、教育的意図の強いものであるが、ほとんどの曲は作曲者がわかっていない。また、幼いヴォルフガングが即興で演奏した小曲を父親が書き留めたものも一緒に綴じられていた。
 第23番の行進曲と第29番の小品は作曲者が伝えられていないが、第17番のメヌエットはレーオポルトの作で《婚礼のメヌエット》の第9番を主部、第10番をトリオと
して、クラヴィーア用に編曲した作品である。いずれも簡潔な2部形式をとるが、この曲集のなかでは比較的長い作品と言えるだろう。

●W.A.モーツァルト:サリエリの主題による6つの変奏曲 K.180

 1773年の秋、ウィーンで書かれたと推測されているが、自筆楽譜は現存せず、正確な作曲年代はわからない。出版は《フィッシャーのメヌエットによる12の変奏曲》K179、《「私はランドール」による12の変奏曲》K354とともに、1778年にパリで行われた。
 主題はアントーニオ・サリエリのオペラ《ヴェネツィアの大市》(1772年1月、ウィーン初演)、第2幕フィナーレに出てくる3重唱の、第1ヴァイオリンの声部から取られている。「メヌエット」と題された16小節の主題の後、徐々に動きが加速する4つの変奏、アダージョ変奏、短いコーダを伴うコントルダンス風の最終変奏が続く。一つの変奏内で単一の音型のみに固執しない、モーツァルトの変奏技法が最初に示された変奏曲である。

●P.D.パラディエス:ソナタ 第3番 ホ長調

 ピエトロ・ドメニコ・パラディエスはナポリに生まれた鍵盤楽器奏者。1746年にロンドンへ移住し、念願のオペラ作家としての活動は首尾良く行かなかったが、声楽と鍵盤楽器の教師として成功を収めた。レーオポルトの書簡(1768年9月14日付)によれば、モーツァルト一家はロンドンでパラディエスと親しくしていたという。
 彼が出版した唯一のソナタ集(1754年、ロンドン)は全12曲、すべて2楽章制を取っている。おそらく、モーツァルトはロンドン滞在中にこの曲集を手に入れたはずである。また、後年、ミュンヘン滞在中のレーオポルトが書いた書簡(1775年12月16日付)では、ザルツブルクにいるナンネルに、クリスティアン・バッハやパラディエスのソナタを弾いて、クラヴィーアの練習を怠らぬよう求めている。この曲集を高く評価したのはモーツァルト一家のほかに、M.クレメンティやJ.B.クラーマーがおり、19世紀においてもクラヴィーア演奏の教材として使用されていた。第3番は華麗なパッセージが絶え間なく動き続ける点が印象的なプレストと、‘ギャラント様式’の模範といえる「アリア」からなる。

●G.C.ヴァーゲンザイル:ディヴェルティメント 第4番 ト長調 Op.2-4、WV54

 生地のウィーンで活動したゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイルは、‘宮廷作曲家’や‘皇室クラヴィーア教師’の称号をもち、ハプスブルク帝国で公的に最も高
く評価された作曲家だった。モーツァルトは、既に《ナンネルの楽譜帳》で彼の小品(ディヴェルティメント集作品1の第2番のスケルツォ)を練習しており、62年10月にはウィーンでこの著名な音楽家に会っている。二度目のウィーン旅行の際には、ヴァーゲンザイルのソナタや協奏曲を一生懸命筆写して入手しようと務めている。
 ヴァーゲンザイルの鍵盤楽器独奏用ディヴェルティメント集は、53年から63年にかけて計5冊、27曲が出版されており、6曲からなる作品2は1755年頃に出版された。第4番ト長調は多彩な楽節が並列されるアレグロ、活発な付点リズムの主部とト短調のレガートが印象的なトリオからなるメヌエット、ト短調のポロネーズ、名技性に勝るジーグ風のアレグロ・アッサイの4楽章からなる。

●W.A.モーツァルト:ソナタ ヘ長調 K.280

 現存するモーツァルトの最初の独奏用ソナタK279〜284は、オペラ《偽りの女庭師》K196の上演のため滞在していたミュンヘンで作曲された。おそらくは出版を想定した6曲1セットの曲集と思われるが、第6曲ニ長調K284を除き、生前には出版は果たされなかった。だが、これらのソナタはモーツァルトの取っておきの曲として、‘マンハイム・パリ旅行’時にも各地で披露された。ヘ長調ソナタについて、レーオポルトはマンハイムにいる息子と妻に宛てた書簡(1777年11月17日付)のなかで、「最も難しい」と評している。
 第1楽章は堂々たる冒頭主題で始まるが、リズムの多彩さが独特の効果を発揮するソナタ楽章。ヘ短調をとる第2楽章はシチリアーノ舞曲のリズムを元にし、メランコリックな性格が際だつ。第3楽章は華麗なパッセージが満載された大規模なフィナーレ。これらの楽章は、それぞれ別の観点からみて、確かに「最も難しい」ソナタと言えるだろう。

●C.P.E.バッハ:変奏くり返し付きのソナタ 第1番 ヘ長調

 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハはヨハン・ゼバスティアンの次男で、ベルリン、ハンブルクで活動した。鍵盤楽器の名手として知られ、ハイドンやベートーヴェンなども教科書として使用した『クラヴィーア奏法』(1953、62年、ベルリン)では優秀な教育者としての才能も示している。モーツァルトは、《ナンネルの楽譜帳》で既にバッハの変奏曲H155を勉強しており、1767年に他人のソナタを4曲の協奏曲に編曲した際もバッハの《ベーマー》H81という小品を取り上げていた(ニ長調K40の終楽章)。また、レーオポルトは1775年に息子のソナタK279〜284の出版を出版業者のブライトコップに打診した時、この業者が出版したバッハの作品の注文書を取り寄せている。そのやり取りのなかで、レーオポルトによって言及されているのが、6曲からなる《変奏くり返し付きのソナタ集》(1763年、ベルリン)である。
 この曲集のタイトルは、繰り返し時に演奏者の即興に任されるべき装飾を作曲者自らが書き出している点を表している。アマチュアに自分の即興的装飾のやり方を伝授するためのアイディアであり、商才にも長けていたバッハらしい曲集と言える。全3楽章が休みなく続けられる第1番ヘ長調では、ニュアンス豊かな音型に溢れた第1楽章と華麗な技巧を駆使した第3楽章に‘変奏繰り返し’が付けられている。ニ短調の第2楽章はこの作曲者らしい表出的な表現を聴くことができる。

●J.ハイドン:ソナタ ニ長調 Hob.XVI-24

 ウィーン移住以前のモーツァルトとヨーゼフ・ハイドンの関係は、従来、1773年の第3回ウィーン旅行との関連で語られてきた。だが、彼らがその時に会ったという証拠は存在しない。同地で書かれた《ウィーン四重奏曲》K168〜173がハイドンの‘作品20’の同種作品に影響を受けたという説も確証はないのである。だが、モーツァルト一家はハイドンの音楽に関心がなかったわけではなく、1771年8月18日付のレーオポルトの書簡にはハイドンのクラヴィーア三重奏曲への言及が見られる。従って、この時期のモーツァルトが、ハイドンのクラヴィーア書法を全く知らなかったわけではない。
 ソナタニ長調は1773年の日付を自筆譜に持ち、1774年にウィーンで出版された6曲セットのソナタ集(ニコラウス・エステルハージ侯爵へ献呈)に含まれる。これは、ハイドンの個性がまさに全開した最初のソナタ集と見ることができるだろう。ニ長調ソナタでは両端楽章を3拍子にするいっぽう、ニ短調のアダージョを重い4拍子にするという、非常に変わった拍子の選択がなされている。第1楽章は「提示部」の素材を満遍なく「展開部」に盛り込んでいる点で、この時期としては非常に珍しいソナタ楽章。嘆きのニ短調と煌びやかなヘ長調を対比させたアダージョは直接フィナーレへ繋がる。スケルツォ的な性格を帯びたフィナーレは、変奏曲とロンドを混合した形式をとり、まさにスリリングなリズムの戯れを満喫できるだろう。(安田和信)

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